2012年01月21日
二、まず勝ちて而る後に戦いを求め
勝を見ること衆人の知るところに過ぎざるは、善の善なる者にあらず。
戦い勝ちて天下善というは、善の善なる者にあらず。
故に秋毫を挙ぐるも多力となさず。
日月を見るは明目となさず。
雷霆を聞くも聡耳となさず。
古えのいわゆる善く戦う者は、勝ち易きに勝つ者なり。
故に善く戦う者の勝つや、智名も無く、勇功無し。
故にその戦い勝ちてたがわず。
たがわざるは、その措くところ必ず勝つ。
すでに敗るる者に勝てばなり。
故に善く戦う者は不敗の地に立ち、而して敵の敗を失わず。
この故に勝兵はまず勝ちて而る後に戦いを求め、敗兵は先ず戦いて而る後に勝ちを求む。
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戦い勝ちて天下善というは、善の善なる者にあらず。
故に秋毫を挙ぐるも多力となさず。
日月を見るは明目となさず。
雷霆を聞くも聡耳となさず。
古えのいわゆる善く戦う者は、勝ち易きに勝つ者なり。
故に善く戦う者の勝つや、智名も無く、勇功無し。
故にその戦い勝ちてたがわず。
たがわざるは、その措くところ必ず勝つ。
すでに敗るる者に勝てばなり。
故に善く戦う者は不敗の地に立ち、而して敵の敗を失わず。
この故に勝兵はまず勝ちて而る後に戦いを求め、敗兵は先ず戦いて而る後に勝ちを求む。
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2012年01月19日
一、九地の下にかくれ 九天の上に動く
孫子曰く、昔の善く戦う者は、まず勝つべからざるをなして、もって敵の勝つべきを待つ。
勝つべからざるは己れに在るも、勝つべきは敵に在り。
故に善く戦う者は、よく勝つべからざるをなすも、敵をして必ず勝つべからしむることあたわず。
故に曰く、勝は知るべし、而して為すべからずと。
勝つべからざるは守ればなり。勝つべきは攻むればなり。
守はすなわち足らざればなり。攻むるはすなわち余りあればなり。
善く守る者は九地の下にかくれ、善く攻むる者は九天の上に動く。
故によく自ら保ちて勝を全うするなり。
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勝つべからざるは己れに在るも、勝つべきは敵に在り。
故に善く戦う者は、よく勝つべからざるをなすも、敵をして必ず勝つべからしむることあたわず。
故に曰く、勝は知るべし、而して為すべからずと。
勝つべからざるは守ればなり。勝つべきは攻むればなり。
守はすなわち足らざればなり。攻むるはすなわち余りあればなり。
善く守る者は九地の下にかくれ、善く攻むる者は九天の上に動く。
故によく自ら保ちて勝を全うするなり。
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2012年01月09日
四、彼を知り己を知れば
故に勝を知るには五にあり。
もって戦うべきともって戦うべからざるとをを知る者は勝つ。
衆寡の用を識る者は勝つ。
上下の欲を同じくするものは勝つ。
虞をもって不虞を待つ者は勝つ。
将、能にして君の御せざる者は勝つ。
この五者は勝を知るの道なり。
故に曰く、彼を知り己れを知れば、百戦して殆うからず。
彼を知らずして己れを知れば、一勝一負す。
彼を知らず己を知らざれば、戦うごとに必ず殆うし。
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もって戦うべきともって戦うべからざるとをを知る者は勝つ。
衆寡の用を識る者は勝つ。
上下の欲を同じくするものは勝つ。
虞をもって不虞を待つ者は勝つ。
将、能にして君の御せざる者は勝つ。
この五者は勝を知るの道なり。
故に曰く、彼を知り己れを知れば、百戦して殆うからず。
彼を知らずして己れを知れば、一勝一負す。
彼を知らず己を知らざれば、戦うごとに必ず殆うし。
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タグ :彼を知り己を知る
2011年09月12日
四郎左衛門
四郎左衛門 しろうざえもん ~1634
魔法師。小間物商で加賀の人。
田原村長三郎の後家と親しく情を結び、
また当時天下御法度の切支丹法を心得て、
奇怪なることをしていた。
恋敵の座頭城早というものが遺恨に思い領主に訴えようと、
桃源院和尚に巨細を述べた。
領主鳥居主膳正与力十五人が召捕に向かったが、
種々の魔術を行って捕らえることが出来ず、引揚げた。
しかしその後、天運つきたと自首し、寛永20年高遠山田河原で、
さかさに吊されて殺された。
なおその子丹瑞も、蔵沢寺に入って修行しついに同寺を継いだが、
父親の気性をうけ、魔法を行ったため同寺を去らねばならなくなった。
のち山寺村常円寺住職となったが、ここでも魔法を行ったことがわかり、
領主鳥居候の手に捕らえられ、元禄十年二月四日六十歳のときハリツケにされた。
(「上伊那郡誌」小口珍彦述「伊那路」稿による)
信州人物誌より
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魔法師。小間物商で加賀の人。
田原村長三郎の後家と親しく情を結び、
また当時天下御法度の切支丹法を心得て、
奇怪なることをしていた。
恋敵の座頭城早というものが遺恨に思い領主に訴えようと、
桃源院和尚に巨細を述べた。
領主鳥居主膳正与力十五人が召捕に向かったが、
種々の魔術を行って捕らえることが出来ず、引揚げた。
しかしその後、天運つきたと自首し、寛永20年高遠山田河原で、
さかさに吊されて殺された。
なおその子丹瑞も、蔵沢寺に入って修行しついに同寺を継いだが、
父親の気性をうけ、魔法を行ったため同寺を去らねばならなくなった。
のち山寺村常円寺住職となったが、ここでも魔法を行ったことがわかり、
領主鳥居候の手に捕らえられ、元禄十年二月四日六十歳のときハリツケにされた。
(「上伊那郡誌」小口珍彦述「伊那路」稿による)
信州人物誌より
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